2009年05月13日

同性愛と同性婚

先日、カナダ・トロントの日本語教会の牧師を囲んで食事をする機会がありました。もともと牧師志望だったとき、私の所属する教会で2年ほど、牧師見習いとして奉仕しておられた方です。
その牧師から、こんな話を聞きました。
「カナダではね〜、教会の牧師が、同性婚の結婚式の司式を拒否すると、逮捕されちゃうんだよ〜」

カナダでは、2005年に同性間での結婚が合法化されたそうです。法案に強く反対したキリスト教関係者の主張は退けられた形となりました。そのような法律が成立したのは仕方ないとして、同性婚を認めていないキリスト教の牧師の信仰が尊重されず、法的に受け入れることを強要されるというのは一体どうなのだろう、と不思議に思いました(しかし牧師は、ただ自分の置かれた苦境を大げさに表現するために、逮捕されちゃうと言っただけで、実際はそうではないのかもしれません。現実には、同性婚を容認している牧師がおり、同性愛者はそういう牧師をよく知っている、だから聖書の教えに忠実な牧師のところには来ないのだ、と話していました)。

この動きは、西欧社会を中心に広がってきているようです。アメリカでも同性婚をめぐっては、激しい議論が交わされています。日本にも、いずれ波及してくると思うのですが、まだ、この問題についてはほとんど議論されていないように思います。他人事というか、困惑気味というか…。しかし、反対とは言いにくい雰囲気というのがあるかもしれません。反対する人は、同性愛者を差別する、差別主義者に思われないかと…。

私はキリスト教の価値観からこれに反対する立場ですが、「なぜ反対なのか」についてが非常に大切だと思っています。そのことについて、少し書いてみたいと思います。

(1)同性愛は必ずしも先天的なものでなく、どちらかといえば後天的要因になって起こる心理障害です。
   1970年代から、精神医学の世界で治療の対象から削除する動きが出てきましたが、
   それは医学的・学術的見地からなされたものでなく、政治的理由によるものといわれています。

(2)同性愛の人は、自分がなぜそうなったのか、わかりません
   同性愛の人は、自ら選択したのではなく、気が付いたらそうだったのです。
   だから、同性愛の人を、その傾向があるという理由で責めたり裁くべきではありません。

(3)その原因の根底には、家族関係の崩壊があります
   特に、父親との絆が欠如していることが、大きな原因と考えられます。
   幼少時の不幸な性体験が原因となっていることもあります。
   
(4)同性愛を容認し、同性婚を法的に認めることで、さらに家族の崩壊が進んでしまいます
   うまくいえませんが、これは関係性の病気、社会的な病気と思います。
   法的な容認は、病巣を取り扱って健全化していく社会的な機会を損失させます。

私はクリスチャン・カウンセリングについて専門的な学びをしましたが、その中で同性愛についても学びました。アメリカではクリスチャン・カウンセリングによって、同性愛から開放され、異性と愛し合って結婚した人が何人もいます。同性愛者といえば、テレビや映画等の影響から、一般的には同性が好きであることを受け入れ、公言し、そのようなライフスタイルで生きている人を思い浮かべますが、実際には、自分が同性を愛することは自覚しつつも、あるがままの自分を受け入れることができず、心に葛藤を持ったまま悶々としておられる人が大半だと思います。

同性愛を精神医学で治療の対象として扱うことをやめたということは、同性愛で苦しんでいる人には、あるがままを受け入れて生きる道しか残されていません。病気を治すことをやめた変わりに、社会を変えようとしているのです。その背景には、キリスト教国であった欧米では、同性愛行為は死刑の対象とされたという歴史があります。しかし、それは聖書的には正しい方法だったとはいえないでしょう。同性愛の人にも、生きる権利があります。当然のことです。その意味で、社会が変わろうとしていることは良い事です。でも、どこまで変えるかについて、限度があると思います。

ブッシュ元大統領は、同性婚に反対の立場を取っていました。その理由を聞かれて、確か「結婚は男と女がするものだから」と答えていたという記憶があります。ものすごく単純ですが、これが自然であり、真理です。でも、マスコミの反応は「バカじゃないか」というような感じだったと思います。私はその光景をテレビで観て、やりきれない思いがしました。愚かな政治家というレッテルを貼られてしまったあとでは、正しいことを言っても、バカにされて終わりです。

オバマ大統領は、同性婚に対してはどちらかというと容認していく姿勢のようですが、今年1月に行われた大統領就任式で、開会の祈りを担当したのはカリフォルニアにあるサドルバック教会のリック・ウォレン牧師でした。私も何冊か著書を読んでよく知っている牧師ですが、同性婚には反対の、保守的な立場を表明している人物です。2万人を越えるメガチャーチを牧会し、ベストセラー「人生を導く5つの目的」の著者である牧師と、就任前から圧倒的な人気を誇る大統領。私には、人気者が、別の人気者の支持者を取り込もうとしているように感じられました。こういうのを、ポピュリズムって言うのかしら?



オバマ大統領就任式におけるリック・ウォレン牧師の祈りはこちらで紹介されています。
http://gospel.sakura.ne.jp/mt/archives/2009/01/post_606.html
posted by 飛田カオル at 21:10| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記/随想
この記事へのコメント
本当に、同性愛者がなぜそうなったのか考えずに、ただ受け入れるのがよいというのはおかしいですね。
Posted by 紫式部 at 2009年05月14日 19:39
そうですね。イエスさまは、人をありのままで受け入れ、愛されますが、「よくなりたいか?」と聞かれる方でもあります。「よくなりたい」と思っている人に「あなたはそのままの自分を受け入れなさい」と強要するのは、ちょっと違うでしょうね。

私のいいたいことを汲んでくださって、ありがとう。
Posted by 飛田カオル at 2009年05月15日 08:17
私は、母教会の牧師さんとのカウンセリングで「クリスチャンでゲイ、そんなやつ死んでくれ、死刑になってもいいと聖書に書いてある」みたいなことを言われましたが、。、(もちろん僕はその牧師さんにカミングアウトしてないのにもかかわらず。。)

あと、違うクリスチャンカウンセリングでも、牧師さんの祈祷の中で「彼から、同性に魅かれる感情を取り去ってください。罪ですから。」
と、本に書いてあることを棒読み、。。
というより、その牧師さんには全く、僕の性的志向性を話してもいないのに、そう祈ってくる。。
(インナーヒーリングミニストリーでです。この祈祷会では、性的志向性に重点は置いていませんでした。)
というか、その時点で、誰にも話してもいないし、誰とも肉体関係をもったこともないのに、そういう「疑い」の目を僕につけたのは誰なんだ?いったい。

正直、かなり傷つきましたよ。
イエス様、神様の名前のもとにこれをやられると。余計なお世話でしたよ。

もう、やめました。そういう自分がしんどくなる教会は。
もういいです、どう言われようと。

今は、ま、賛否両論の聖公会に行っていますが、楽になりました。
まず、教会員に性的少数者が普通にいてます。ゲイ、レズビアン、性転換者のシングル、カップルが。
ま、そう言ってもほとんどが普通のヘテロセクシャルカップルまたはシングルです。
子供もまぁまぁいますが、なんだかんだいって普通ですね。大して彼らの精神構造に、ゲイカップルがいることで支障が、、なんて誰も思ってないみたいですよ。普通に自分の子供をゲイカップルに抱っこさせたりしてますし。
主任司祭さんもパートナー付きのゲイの司祭さんですが、みんな大好きですね。

無理してでも、異性愛者になること、生まれることが良いことなんですか?それほどまでも。ま、子供は生まれませんが。
でも、僕の友人のゲイ司祭(どちらも司祭)カップルは、女の姉妹を養子にしてますが、普通に彼らに愛されて育っていますよ。子どもたちは。
Posted by at 2009年06月07日 21:05
こんにちは。お名前がありませんが、貴方にとって辛い経験を思い出させるような内容だったにもかかわらず、こうしてコメントをくださって、ありがとうございます。

これまで、牧師から「疑い」の目で見られて、話してもいないことで、ひどいこと(「死んでもいい、なんて、本当にひどいです!」を言われ、傷つかれたのですね。牧師の権威を傘にきて、このようなことを言われるのは本当に無神経で、神様の働きのためになっていないと思います。

母教会の牧師の言われたことは、聖書理解があまりにも浅すぎると思います。確かに、旧約聖書には牧師のいわれたようなことが書いてあります。しかし、他にもたくさんの律法がありました。安息日規定であるとか、食物規定であるとか…。姦淫したら石打ちの刑、というのもありましたね。もし、旧約聖書に書かれていることを根拠に、同性愛は死刑だ、というのなら、他の律法も全うされなければなりません。割礼を受けたり、安息日を守ったり、食物規定をまもったりしなければならないのです。

旧約聖書において、同性愛行為に厳しい罰則が科せられていたのは、この時代、カナンの地において行われていた偶像礼拝では神殿男娼が置かれており、神殿に参拝したとき、男娼と性行為をすることが慣習として行われていたという時代背景があります。神は、イスラエルの民を異邦人と聖別されるために、このような規定を作られたのだと思います。異性の服装をすることも、同様です。同性愛行為は、偶像礼拝と密接につながっていたのです。性の乱れは自己中心と偶像礼拝につながり、霊的な混乱をもたらします(しかし悲しいかな、イスラエルの民はこのことに関しても、失敗の連続でした。性の問題、性にまつわる事件は旧約聖書の中にたくさん出てきますね)。

しかしイエスが来られて律法は成就され、新約の時代に入りました。新約聖書にも、何が罪であるかは書かれていますが、旧約聖書とちがって、罰則規定は書かれていません。イエスの身代わりの十字架があるからです。新約は、恵みの時代です。罰ではなく、死ではなく、恵みによって赦しと救いと癒しとが与えられる時代です。ですから私は、あなたの母教会の牧師の言われたことは、間違っていると思います。

また、同性に惹かれる感情が罪だ、というのも、どうなのかなあと思います。惹かれるって、同性であろうと異性であろうと、あることじゃないですか。イエスは「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と言われましたが、これは男性が女性を見ることだけに限定されたことではなく、男性が男性を、女性が男性を、また女性が女性を見るときにも同様と思います。情欲というのは、相手を自分の欲に従わせたいという自己中心的な思いだからです。でも、「惹かれる」ということは、そういうこととは違いますよね。同性愛であろうと異性愛であろうと、「情欲をいだいて見る」かどうかを、イエスは問題にされているのだと私は思っています。そして、情欲をいだいて見ているのかどうかは、あなたご本人にしか分からないことです。クリスチャン・カウンセリングの中で…ということですが、誰かの罪を本人が自ら告白するより前に、他の人が、たとえ祈りの中であろうと指摘するなんて、その牧師はあなたの心に踏み込みすぎていると思います。あなたが、どんな思いで同性の人を見ているか、あなた自身以外にどうして分かるのでしょうか。その感情が罪深いものかどうか、神とあなた以外の人間に、どうして分かることでしょうか。しかも、祈祷会ということは、他の方もいらっしゃったのでしょう。こうしたこと、特に性的なことにまつわる問題は、そのような場で取り扱うべきことではありません。

あなたが、しんどくなられたのは無理のないことですし、そうした牧師、教会のもとを離れられて、今、心地の良い場所を見付けておられるなら、それはそれで良いことだと思います。

聖公会については、そうですね。私は、神様の決められたルールを人間が改変することは、良くないと思います。神様の与えてくださったものが、最高のもののはずだからです。ただ、現実にあなたのような方がいらっしゃって、ルールを変えなければ平安でいられないという現状を、一番悲しんでいおられるのも神様だと思います。教会はこの点で、罪を認めて悔い改めなければならないと思います。

最後に、無理してでも異性愛者になることが良いことなのか?ということですが、それも、あなたとイエス様とのコミュニケーションの中で、あなた自身がお決めになればよいことだと思います。イエス様は、ベテスダの池の周りにいた病人の一人に「よくなりたいか」と言われました。病人は、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」と答えました。イエス様は、「よくなりたいですか?」と、あなたにも、私にも、すべてイエス様の元に来る人に問いかけられます。あなたが「よくなりたい」と願うなら、よくしてくださる方、でもあなたが「このままで十分です」というなら、今のままで愛してくださる方です。あなたが「よくなりたい」と願ったときが、そのときで、今そうでないなら、無理をなさらなくてもいいのではないですか?

Posted by 飛田カオル at 2009年06月08日 19:58
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/29117908

この記事へのトラックバック